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初代高崎市長矢島八郎翁像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

上は昭和5年に建てられた初代高崎市長矢島八郎翁の銅像の写真です。座ってポケットに手を突っ込んで写っているのが曽祖父です。態度が悪いですね。
下は今の様子です。ナガオーに入ってもらいました。初代と玄孫の時代を超えたコラボレーションでしょうか。
一度、戦争のため取り壊されたようで、建てたときより低くなっています。

建設趣旨文

建設趣旨文

再建経緯文

再建経緯文

左は、建設にあたっての趣意文だと思われますが、漢文で全然読めません。
右は戦争で一時、取り外して再建しました。みたいな事が書いてあるみたいです。

矢島八郎は維新前後から明治の中葉、とりわけ市制施行期に極めて重要な役割を果たしました。矢島家は代々、新町の問屋年寄で、八郎は嘉永3年に生まれ、幼名を熊次郎、諱を宗敏、7才の頃より漢籍、書を学び、14才の時、父を失い八郎右衛門を襲名、問屋年寄見習となりました。大小区制が施行されると、彼は第5大区第6区戸長となり町政にたずさわります。

また、郵便馬車会社、中牛馬会社を創設するなど交通運輸の発展に寄与しました。明治11年には群馬・片岡両郡兼郡書記となっています。同17年県議会議員に当選、この年、駅伝取締法実施により、本県総取締となりました。

またこの年、上野・高崎間に鉄道が開通しましたが、自ら敷地を寄付する(そのため、新地名を「矢島町」とする案が浮上した。しかし、矢島が固辞したため、「八島町」という地名になった。)と共に中山道と駅を結ぶ駅前道路(アクセス道路)を率先して計画、岡田源兵衛、井上平次郎、田中喜平司、志村藤平、小熊善吉その他の賛助と寄付金によって新設、町ヘ寄付しています。

明治21年碓氷峠に馬車鉄道を敷設するため、前橋の高瀬四郎らと奔走し、横川・軽井沢間の汽車連絡の便を図っています。明治22年、町村制の実施に当り、高崎の町会議員に当選、ついで初代の高崎町長となりました。明治25年、衆議院議員に当選、明治27年、高崎米穀取引所頭取、翌年には上野鉄道会社取締役となっています。市制施行に際して、初代の高崎市長となり、在職六年、この間に「市是」の確立、水道敷設事業・教育の振興に傾注しました。