カテゴリー別アーカイブ: 旧い写真

忠霊塔2

現在の金古町忠霊塔を撮影してきました。

忠霊塔2

忠霊塔2

忠霊塔3

忠霊塔3

忠霊塔4

忠霊塔4

書には松岡忠治
刻には長沼正志とあります。

松岡先生は書道の先生でした。たくさんの生徒さんがいて、私も習いに行っていました。恥ずかしいことにあまり字は上手くありません。

また当時、祖父は「長沼正志」という字使っていたことがあるようです。本名では「正止」と書きますがなかなか読んでもらえない経験があったそうでそういう時期があったそうです。

忠霊塔書刻

忠霊塔書刻

建立者は「昭和三十年三月三十一日 群馬郡金古町」とあります。
「群馬郡群馬町」になる昭和の大合併より前の時期のものだとわかります。

忠霊塔建立者年月日

忠霊塔建立者年月日

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忠霊塔

忠霊塔

忠霊塔

高崎市金古公民館(群馬県高崎市金古町1278−2)の隣に戦没者の慰霊のするための忠霊塔があります。建設当時の写真が見つかりました。今では桜が覆い茂っていますが、当時は回りが畑だった様子がうかがえます。

グーグルストリートビューで少しだけ道路から見えました。

忠霊塔ストリートビュー

忠霊塔ストリートビュー

忠霊塔ストリートビュー

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家の前の道が舗装されたとき

高渋線舗装

高渋線舗装

高渋線舗装2

高渋線舗装2

高渋線舗装3

高渋線舗装3

久々に、古い写真を載せます。
我が家の前の県道が初めてアスファルト舗装されたときの様子です。小さな男の子がナガコウ父です。来年還暦です。そこから推せば昭和20年代後半の出来事でしょう。
ロードローラーなんかも鉄骨の形がハッキリ見えます。手作りっぽさ満点ですね。
舗装にも手作業の部分が多く人手も要ったようですね。

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足利織姫神社遷座祭

足利織姫神社遷座祭

足利織姫神社遷座祭

足利織姫神社遷座祭2

足利織姫神社遷座祭2

またまた旧い写真の話題です。
左は、足利駅前で撮られたものだと判明いたしました。たぶんカメラは駅舎を背中にして向いていると考えます。
右はずいぶんかしこまっていますね。どちらも祖父の兄(戦死)が写っています。一人だけ違う半纏を着ているのがそうです。この人にもう少し似れば私も男前だったのにな~。
1963(昭和11)年頃のものだと思われます。

ちなみに遷座祭っていうのは、神社の御神体をうつすお祭りで、この写真の場合は、織姫神社が建て替えられて、それを遷すお祭りだと思われます。

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第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

おそらくは我が家に残っていた写真のなかで最も旧いと思われる写真です。

1915年竣工の第一銀行桐生支店(四十銀行本店)の前で撮られたものです。施工の小川組は現存して現在は株式会社小川建設となっています。創業時の建物のようです。このページの01番がその建物だと確認できます。神輿の後の玄関のアーチが確認できます。

1915年(大正4年)というと曽祖父が20才のときです。右側で提灯を持っている人のお腹の辺りに顔を出しているのが曽祖父だと思われますが、若いです。

曾祖母の出身地は桐生なので、このとき知り合ったのかな~。なんて思ったりラジバンダリ。

こんなページも発見

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群馬県庁上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟2

群馬県庁昭和庁舎上棟2

左は群馬県庁の昭和庁舎が上棟されたときの写真です。県立文書館にも収蔵されているので、個人で所有しているのは珍しいかもしれません。右は施工した清水建設(当時は清水組)に現存する当時の写真です。問い合わせたらメールでいただきました。
分かりにくいけれど、たぶん祖父の兄が写っています。

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初代高崎市長矢島八郎翁像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

上は昭和5年に建てられた初代高崎市長矢島八郎翁の銅像の写真です。座ってポケットに手を突っ込んで写っているのが曽祖父です。態度が悪いですね。
下は今の様子です。ナガオーに入ってもらいました。初代と玄孫の時代を超えたコラボレーションでしょうか。
一度、戦争のため取り壊されたようで、建てたときより低くなっています。

建設趣旨文

建設趣旨文

再建経緯文

再建経緯文

左は、建設にあたっての趣意文だと思われますが、漢文で全然読めません。
右は戦争で一時、取り外して再建しました。みたいな事が書いてあるみたいです。

矢島八郎は維新前後から明治の中葉、とりわけ市制施行期に極めて重要な役割を果たしました。矢島家は代々、新町の問屋年寄で、八郎は嘉永3年に生まれ、幼名を熊次郎、諱を宗敏、7才の頃より漢籍、書を学び、14才の時、父を失い八郎右衛門を襲名、問屋年寄見習となりました。大小区制が施行されると、彼は第5大区第6区戸長となり町政にたずさわります。

また、郵便馬車会社、中牛馬会社を創設するなど交通運輸の発展に寄与しました。明治11年には群馬・片岡両郡兼郡書記となっています。同17年県議会議員に当選、この年、駅伝取締法実施により、本県総取締となりました。

またこの年、上野・高崎間に鉄道が開通しましたが、自ら敷地を寄付する(そのため、新地名を「矢島町」とする案が浮上した。しかし、矢島が固辞したため、「八島町」という地名になった。)と共に中山道と駅を結ぶ駅前道路(アクセス道路)を率先して計画、岡田源兵衛、井上平次郎、田中喜平司、志村藤平、小熊善吉その他の賛助と寄付金によって新設、町ヘ寄付しています。

明治21年碓氷峠に馬車鉄道を敷設するため、前橋の高瀬四郎らと奔走し、横川・軽井沢間の汽車連絡の便を図っています。明治22年、町村制の実施に当り、高崎の町会議員に当選、ついで初代の高崎町長となりました。明治25年、衆議院議員に当選、明治27年、高崎米穀取引所頭取、翌年には上野鉄道会社取締役となっています。市制施行に際して、初代の高崎市長となり、在職六年、この間に「市是」の確立、水道敷設事業・教育の振興に傾注しました。

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