月別アーカイブ: 2008年10月

第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

第一銀行桐生支店(四十銀行本店)

おそらくは我が家に残っていた写真のなかで最も旧いと思われる写真です。

1915年竣工の第一銀行桐生支店(四十銀行本店)の前で撮られたものです。施工の小川組は現存して現在は株式会社小川建設となっています。創業時の建物のようです。このページの01番がその建物だと確認できます。神輿の後の玄関のアーチが確認できます。

1915年(大正4年)というと曽祖父が20才のときです。右側で提灯を持っている人のお腹の辺りに顔を出しているのが曽祖父だと思われますが、若いです。

曾祖母の出身地は桐生なので、このとき知り合ったのかな~。なんて思ったりラジバンダリ。

こんなページも発見

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群馬県庁上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟

群馬県庁昭和庁舎上棟2

群馬県庁昭和庁舎上棟2

左は群馬県庁の昭和庁舎が上棟されたときの写真です。県立文書館にも収蔵されているので、個人で所有しているのは珍しいかもしれません。右は施工した清水建設(当時は清水組)に現存する当時の写真です。問い合わせたらメールでいただきました。
分かりにくいけれど、たぶん祖父の兄が写っています。

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年金特別便

年金特別便

年金特別便

ナント!

私にも年金特別便が届きました。私の記録はまだまだ最近のものなので食い違いもなく、スンナリOKできる記録でしたのですぐに返信しました。
これをほぼ全ての労働経験のある国民に送っているのだから相当なお金を使ってしまっていますよね~。凄い金額になるんじゃないかな。大変なことですね。

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初代高崎市長矢島八郎翁像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

初代高崎市長矢島八郎翁の銅像2

上は昭和5年に建てられた初代高崎市長矢島八郎翁の銅像の写真です。座ってポケットに手を突っ込んで写っているのが曽祖父です。態度が悪いですね。
下は今の様子です。ナガオーに入ってもらいました。初代と玄孫の時代を超えたコラボレーションでしょうか。
一度、戦争のため取り壊されたようで、建てたときより低くなっています。

建設趣旨文

建設趣旨文

再建経緯文

再建経緯文

左は、建設にあたっての趣意文だと思われますが、漢文で全然読めません。
右は戦争で一時、取り外して再建しました。みたいな事が書いてあるみたいです。

矢島八郎は維新前後から明治の中葉、とりわけ市制施行期に極めて重要な役割を果たしました。矢島家は代々、新町の問屋年寄で、八郎は嘉永3年に生まれ、幼名を熊次郎、諱を宗敏、7才の頃より漢籍、書を学び、14才の時、父を失い八郎右衛門を襲名、問屋年寄見習となりました。大小区制が施行されると、彼は第5大区第6区戸長となり町政にたずさわります。

また、郵便馬車会社、中牛馬会社を創設するなど交通運輸の発展に寄与しました。明治11年には群馬・片岡両郡兼郡書記となっています。同17年県議会議員に当選、この年、駅伝取締法実施により、本県総取締となりました。

またこの年、上野・高崎間に鉄道が開通しましたが、自ら敷地を寄付する(そのため、新地名を「矢島町」とする案が浮上した。しかし、矢島が固辞したため、「八島町」という地名になった。)と共に中山道と駅を結ぶ駅前道路(アクセス道路)を率先して計画、岡田源兵衛、井上平次郎、田中喜平司、志村藤平、小熊善吉その他の賛助と寄付金によって新設、町ヘ寄付しています。

明治21年碓氷峠に馬車鉄道を敷設するため、前橋の高瀬四郎らと奔走し、横川・軽井沢間の汽車連絡の便を図っています。明治22年、町村制の実施に当り、高崎の町会議員に当選、ついで初代の高崎町長となりました。明治25年、衆議院議員に当選、明治27年、高崎米穀取引所頭取、翌年には上野鉄道会社取締役となっています。市制施行に際して、初代の高崎市長となり、在職六年、この間に「市是」の確立、水道敷設事業・教育の振興に傾注しました。

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既に取り壊された金古小

金古小学校建設

金古小学校建設

もう既に取り壊されてしまいましたが母校の金古小の木造校舎の上棟時の写真だと思われます。
ちょうど私が最後の卒業生になります。一級下の弟は数日間だけですが新築のRC造の校舎で卒業しました。
階段の手摺で滑り降りたり、冬の隙間風に凍えたり、ラジバンダリな校舎でしたが今になると、改修の道は無かったのかな?と思ったりラジバンダリします。ここでも研屋の半纏を着た人がいます。有力な建築会社だったんですね。

金古小学校建設2

金古小学校建設2

上から

金古小学校建設3

金古小学校建設3

上から其の二

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曾祖母の葬儀の様子

ウタ葬儀

ウタ葬儀

家を出発です。賑やかな行列です。

ウタ葬儀2

ウタ葬儀2

三角の白い布を頭に巻いています。コントの世界だけでしか見たことありませんでした。おまじないでしょうか?

ウタ葬儀3

ウタ葬儀3

いわゆる棺台に乗せた状態ですね。

ウタ葬儀4

ウタ葬儀4

拝んでいるのは祖父だと思われます。

ウタ葬儀5

ウタ葬儀5

家の中の飾りの様子です。座布団が贈られているのがわかります。時代を感じます。

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路面電車

高渋線路面電車

高渋線路面電車

『その昔電車も通った高渋線』
東武伊香保軌道線「高崎線」の写真がありました。
我が家の前あたりだと思われます。
祖父の話では小さい頃、線路に釘を置いて電車に踏ませて平たくしてそれを研いで刃物にして遊んでいたそうです。逞しい育ち方です。

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曽祖父一家

榮吉一家

榮吉一家

この写真はただ一枚だけ残されていた曽祖父一家の写真です。上段左から曽祖父、長男(後に戦死)、次男(私の祖父)、中に三男(後に戦死)、下段右から四男、次女、曾祖母、そして曾祖母に抱かれている顔の切れちゃっている子が三女です。長女はこの写真より前に病死していたそうで、写真は一枚もありません。
下段中の次女がまだ元気に小樽で美容院をやっています。
この当時は今より裕福で、家に蓄音機があったそうです。浪曲を聴いていたんだって。曽祖父の病死と戦争で、仕事どころじゃなくなって貧乏になっていったそうです。

私のルーツです。

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